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看護部長室のコーヒー (はたらくおっさん番外編) [はたらく おっさん]

ちょうど去年の今頃、「はたらくおっさん」という長いシリーズものの記事を書いていた。


アホなウチの会社が、仕事欲しさに「何でもやります!」「全部サービスでやらせて
いただきます!」という、信じられない内容で某・総合病院と契約したおかげで、毎日
奴隷のように扱き使われ、パートの相次ぐ退職や高齢化による人手不足で、現場が
回らなくなってしまい、いよいよ我が清掃チームも壊滅かという追い込まれた限界の
状況の中で奇跡が起こる。
我々の日頃の仕事ぶりに感服してくださった、着任したばかりの新しい看護部長が、
「必要以上に清掃員の方々に負担をかけないように」という御触れを看護師長会議で
正式に決定し、全職員に宣布してくださったのだ。
おかげで何とか最大のピンチは凌ぐことが出来たのだが、実は既にこの時、比べ物に
ならないくらいの更なる試練が、外部(病院)からではなく、内部(パート)によって
引き起こされつつあった・・・。


てな具合で一応、話は幕を閉じ、新たな試練はケリがついてから「続・はたらくおっさん」

として記事にする予定なのですが、まだまだ試練の真っ最中で、この先どのような

結末を迎えるのか予想もつかない現状なのであります。


ということで、今回は「はたらくおっさん」の話の続きは一旦置いといて・・・

本編の中に登場する看護部長という方は、この時、我々清掃チームの最大のピンチを

救ってくれただけでなく、その後も責任者である私は勿論、パートのおばちゃん達にも

常日頃から声をかけて下さり、私に対しては月1回くらいの割合で看護部長室に招いて

くれて「いつも大変ねえ、最近どう?職員は協力してくれてる?あなた達が縁の下の

力持ちで病院を綺麗にしてくれてることに本当に感謝してるって皆に伝えてよ」という

労いの言葉と共に、コーヒーをいれて下さるのだ。

自分の組織の部下達を大事にするトップは珍しくないかもしれないが、直接には関係

のない、外部の下請け業者、その中でも末端の掃除屋に対して、ここまで意識を

持って接してくれる人というのは、そう多くはないはずだ。


掃除屋という職業も、今でこそクリーンスタッフなどと呼ばれファーストフード店並みの

制服で仕事内容のイメージも変ってきつつあるが、あくまでも経営者に意識や意欲の

ある会社であれば、の話だ。

ウチのように、仕事をとる時だけ「何でもやります!」などと調子の良いことを言って

おきながら、契約したら後は知らん顔、従業員を安い賃金で扱き使ってボーナスは

おろか責任者手当てすら出さず、自分達夫婦だけこれ見よがしに贅沢している

バカ社長の会社では、いつまで経っても「掃除屋なんてちょっとアレな人がする

仕事でしょ」とナメられるのだ。実際、高校生のバイト代より安い時給で朝6時から

過酷な労働を強いられるウチの職場は、若い人がやって来てもすぐ辞めてゆき、

今では65歳以上のおばちゃんか、心身のどちらかに障害を抱えている20~40代

しか居ない。そういうメンバーを尊重しながら、商売敵が虎視眈々と狙う「病院」

というオイシイ現場を責任者として守ってゆくのは至難の業である。

ウチのバカ社長夫婦が、どれだけクズ人間かというのは、「続・はたらくおっさん」で

いずれ暴露する予定です(多分、読んでるうちに気分が悪くなりますよ)


話がアチコチに飛んでしまってますが、自分の会社ですらやってることを一切評価

してくれず、孤独な立場の中で、こうして大変さを理解してくれて労ってくれる方が

居るというのは本当に幸福な事だとつくづく痛感する。


今日は、堅苦しい仕事の話ではなく看護部長の趣味である写真の話に花が咲き

実際に撮影した何枚かの写真を見せてくれた。

最近は暑さと倦怠感で心身ともに弱ってる中、こういったささやかな心遣いが

どれだけ有難いかというのは、日々底辺を這うように生きている者にしか

分からない世界かもしれない。

そして、たとえ掃除屋という職業であったとしても、こういった心遣いに応えてゆける

人間でありたいと思うのだ。


看護部長がつくってくれるコーヒーは、いつも市販のインスタントである、しかし、

そのコーヒーは世界一美味く、そして心に染み渡るのでありました。


(おわり)
















堪忍袋の緒がキレる時 (はたらくおっさん番外編) [はたらく おっさん]

以前「はたらくおっさん編」で、私がとある総合病院の掃除の責任者をやってると

書きましたが、まあ、田舎の掃除屋というのは昔も今も「ちょっとワケあり」な人達の

集りなんですわ。

で、主任の私を含めて17人いるウチのチームもご多分に漏れず、すごい顔ぶれでして

殆どが65歳以上の高齢か心身のどちらかに障害を抱えてる人達が多いんですが、

自称「お人好しで面倒見が良い」蟹座でA型の私は、縁があって一緒に働くこういった

人達がどうやったら一番ベストな状態で仕事が出来るかを考えながら毎日のシフトを

悩み、考えているのです。


しかし・・・


「朝、家事を片付けてから出勤したいので9時から出勤にしてほしい」

「免許がなくて現場まで来れないので送迎してほしい」

「年末年始は6連休とりたい、ダメなら今すぐ仕事やめる」

「老健の掃除はやりたくない、○○さんとは一緒に仕事したくない」

「日曜日は出ません」

「カネが要るので16日は出勤したい、でもしんどいから3日連続は出れません」


などなど、要求はとどまるところを知りません。

実際お人好しなだけでなく、辞められると次がなかなか入って来ないという現実的な

大変さがあるので こちらも極力聞いてあげるようにはしてるのですが、しまいには

「主任は予定表つくるフリしてサボってばかりいる」

「私らはこんなに出勤日数が少ないのに何で主任は毎日出てるのか」

という全くスジ違いな陰口を毎日のようにたたき、挙句の果てには苦労して作った

翌日のシフト表を見ながら

「主任はこの人ばかりラクさせてるけど気があるんとちゃうか?」

「こんな予定つくるのに何時間かかとんや、やっぱりサボっとるで、ありゃ」

と私の居ない間にシフトを批評する始末です

もちろん16人のパートさんが全員こんな人なわけではなく、いつも特定の3人が

私の居ない休憩時間帯に集って、私だけでなく自分ら3人以外の悪口大会で盛り

上がってるみたいなのですが、真面目に働いてくれてるメンバー達から遂に、

「あの異常な雰囲気には耐えられない、聞いてるだけで気分が悪くなるから何とかして

欲しい」と言われました。

(皮肉にもこの3人は更年期という以外に特に病気でも高齢でもないのだ)


今の現場で無理やり責任者にさせられてから4年半になりますが、一度として

障害があるとか高齢だからと差別したことはありません、向き不向きがあるので

なかなか失敗が多かったり、役に立たないように見える人でも一生懸命頑張ってくれ

てれば、シフトや作業内容を調整し、結果的に平等になるように計らってきました、

病院の理事長夫人や総務から「あの人、ここで仕事させて大丈夫なの?」と言われ、

他所の会社では1ヶ月しか働けたことのない発達障害の子でも、ウチの職場で3年目を

迎えてます。


でも、体は健康なのに心が歪んだ人達とは苦労を共にすることは出来ません

(と言いつつコイツら3人とも2年も居ましたが)

かの天才外科医、ブラックジャック先生ですら「灰色の家」の中で

「医者は人のからだはなおせても・・・・、ゆがんだ心の底まではなおせん」

と言っています。


こちらが下手に出てるのをいい事に「あれはイヤ、これはやりたくない」と我が儘を

押し通し、毎日毎日 自分以外の者に不平不満と逆恨みを垂れ流す気の毒な人達・・・


憐れみも限界を越え、遂にブチ切れてしまいました。


残念ながら私は経営者ではなく、なんの決定権もない名ばかり責任者なので、この人達

をクビにしたり、トバしたりすることは出来ないので、懲りずにノコノコ出勤して

職場の癌として図々しく居座り続けるかも知れません、どっちにしても逆恨みされ

遺恨は残ります、現実はドラマのようにスッキリ解決しないもんだと痛感します。

P1000953.JPG

「おまんら、許さんぜよ」

ラムもブチ切れてます。


・・・でも実は我が家ではもっと大変な事態が起きつつあって、それどころじゃ

なかったりして [雷][台風]





































どこかで誰かが・・・(はたらく おっさん エピローグ) [はたらく おっさん]

こうして何とか年明け最初の、そして過去最大のピンチを乗り切ることが出来た。

ここまでが今年の1月下旬の話で、次回からはようやく別の話になります。


その前に・・・

去年の6月の副主任退職から始まった、この「はたらく おっさん」シリーズの、「その後」を

エピローグとして締めくくりにします。


病院側の対応はどうなったかと言うと、最初の方こそ一部の看護助手から

「私らに掃除屋の仕事までしろって言うんか」とか

「一回ささっと掃除したら、すぐにどっかに逃げて、こんな手抜きするんやったら、今度は

ウチらが看護部長に訴えたるからな」

と、敵意剥きだしで言われたりしたが 日にちが経つにつれ徐々に順応していってくれた。

勿論、我々清掃員側もただ好意に甘えるだけでなく、これまで以上に丁寧に掃除したし

時間が許す限り協力もした。

元々、病院で働けることに感謝の気持ちはあったし看護士・看護助手の仕事が大変なのは

間近で見ていてよくわかっていたから、出来ることは手伝いたいという気持ちはあるのだ。

そして以前も書いたが、何より少しでも綺麗な病室で患者さんや付き添いの方に安心して

もらえるよう、職場の全員が更に頑張ってくれていた。


病院の総務も、最初こそ態度は酷かったが年々軟化してゆき、相変わらず時々急に

エキセントリックになるものの今回の一件を経て今では良き理解者であり、協力者になって

くれつつあった。


看護部長も、その後も事あるごとに 「ちゃんと決めたことは守ってもらえてる?」、

「パートの皆は疲れてない?」と意識してくれて、言葉だけでなく出張に出た際に土産を買って

きて下さったり、ついこの間は大きなスイカを差し入れして下さったりした。

組織の末端まで大事にする責任者は沢山いるだろうが、外部の下請け業者にここまで

心配りしてくれるトップはそうそういないだろう。

一番大変な時期にこういう意識の高い方が着任して下さったのは、ちょっとした奇跡だった。


それに引き換え・・・

今回、下手すれば会社自体が大打撃を被っていたかもしれない一大事を、自分達の力だけで

凌ぎきったにも関わらず、その会社からは職場にも私個人も何一つ報酬や評価や労いは一切

無かった。


・・・というかこの会社に入ってから一円のボーナスももらったことがないし昇給はおろか責任者と

しての手当てすら付いた事がなかったのでハナから期待はしてなかったが、これまた意外な

ところから嬉しいサプライズが用意されていた。


ある日、院内の通路を歩いていると、上品な年輩のご婦人に声をかけられた。

「ちょっと、あなた・・・あなたにねえ言っておきたいことがあるのよ」


うわちゃ~・・・これは普通、まず100パーセント苦情のパターンである。

「あぁ、すみません、またウチのが何かやらかしましたか?」

が、違った。

ウチのパートのおばちゃんがとった、とある さりげない行動を見てて感動したと言う、

「でへへ、有難うございます、ウチのおばちゃんらは皆、ホントに真面目で働き者です

からねえ、ハナが高いですわ」

と照れながらお礼を言うと、

「それはね、きっと責任者のあなたの指導がいいからよ、私ネあなたのファンなのヨ」

と言って下さった。

そしてそれだけでなく「あなたが居る会社なら、きっと信用できるわ」と言って

長期入院されてるご主人が退院された時、綺麗な家で迎えられるようにと

ハウスクリーニングの仕事を任せて下さったのだ。


私は霊能者でも敬虔なクリスチャンでもないので、この目で神様の姿を見たことは無いが、

おそらく私のような鈍い人間の前に神様が姿を現す時はきっとこんな感じなのだろうと思った。


「どこかで誰かが見ていてくれる」

日本一の斬られ役こと福本清三さんの著書のタイトルであり、青竹さんもコメントで残して

下さった言葉であり、私の好きな言葉でもある。

この時ほどこの言葉を実感したことはなかった。

凡人の人生なんて、まず思ったようにはならないし、大きな奇跡も起こらない、それでも

一生懸命 生きていれば、ささやかなご褒美くらいはきっと準備されてるのだろう。


今回、えらい思いをした割には一円の得にもならなかったが、お金には換えられない

大きな収穫を得たような思いで、この騒動は幕を閉じたのであった。

(おわり)

「はたらく おっさん・完」


最後に 本来、病院で働く方々は、ほとんどが立派な方であり清掃員に対しても腰が低く

人として対等に接してくださる方も多くおられます。

もし、今回のこの記事で不快な思いをされた方がおられましたら心よりお詫び申し上げます。

申し訳ありませんでした。


















































ほすぴたる酔夢譚(おっさん その11 ) [はたらく おっさん]

掃除屋を必要以上に呼びつけない。出来ることは極力、

自分達でする。余程 床が汚れてない限り、一度掃除した

病室のベッド移動後の床の掃き掃除は看護助手で行う。


看護部長が会議で決議して下さったおかげで ようやく

勝ち取った内容だが、実際果たしてそれが無事に守って

もらえるのかどうかが不安だった。

過去にも数回、総務にお願いして看護部に頼んでもらった

ことがあったが、やはり現場の看護部と事務系の総務との

間の見えない壁のようなものに阻まれ、ことごとく反故されるか

しばらくしてからウヤムヤになって、そのうち忘れ去られるか

のどちらかで、結局続かなかった。


しかし今回は違った。

やはり現場のトップである看護部長の決断であり、

師長会議での決定事項で文章化されてただけあって

きちんと徹底されていた。

本当に有難かった。


それは、大黒屋光太夫が漂流と流浪の末、遂にロシアの

エカテリーナ女帝から帰国許可証を受け賜ったシーンを

彷彿させた。(・・・ってオイオイ、怒られるでキミ)


怒られるのを承知で続けると、今回のシリーズで何気に、

尊敬する大黒屋光太夫の物語を紹介したが、実は結構

表面的な流れは似てなくもない気がしてるのだ。

もちろん、ものすご~~く低い次元での話しで広大な海原も、

壮大な大地も、異文化への理解も交流も、オーロラも

生命を脅かす恐怖もなかったが・・・。


いつもご自身の貴重な人生経験を交えて真摯なコメント

して下さる青竹さんが「周囲の理解や協力が皆無の中、

さまざまな否定の中を信じて歩むのは吹雪やブリザードの

中を耐えるのに似ている」という感想を残して下さり本当に

感激したが、その他にもエカテリーナ女帝への謁見に匹敵

するくらいの、看護部長の着任と交渉。艱難辛苦の末に

命がけで帰国した際の幕府のあまりな対応とその後の処遇を

思わせる、交渉後の会社の「いらん事すな」とでも言いたげな

態度と一部のパートさんの私への不信。そして引き抜かれて

看護助手になったパートさんは、ロシアの地で洗礼を受け、

ロシア人として生きることを選んだ2人の仲間を連想させた。


少し解説すると

さまざまな困難と逆境に屈することなく、相次ぐ仲間の死と

協力者の出会いを経て ロシアに辿り着いた時、光太夫一行は

6人になっていた。

そこで更に1人を失うのだが、残り5人のうち2人は病気に

罹ってもう助からないと思い込みロシア正教の洗礼を

受けてしまうのだ。

やがて最大の協力者、ラックスマンの尽力でエカテリーナ女帝

への謁見が実現し、そしてついに日本への帰国への扉が開かれる。

それは同時に洗礼を受けてロシア人になった2人の仲間との

別れでもあった。

いよいよ日本の地を目の前に待機中の船の上で1人が病で

息を引き取る。

最終的に祖国の土を踏むことが出来たのは光太夫と最年少の

磯吉の2名のみであった。


普通の物語だと、ここで家族と再会でメデタシメデタシと

なるのだが、なんとこの後さらに過酷な運命が彼らを

待ち構えていたのだ。


時は江戸時代中期、鎖国真っ只中である、彼らは見ては

いけない、知ってはいけないものに触れた存在として、

日本に帰って来ながら故郷に戻ることを許されず、江戸で

半軟禁状態の飼い殺しの余生を送るのである。


92年の映画ではロシアに残った2人の仲間のうち、

旅の途中で凍傷になって片足を切断し、病の中で洗礼を

受け帰国組に「置いていかれる」という、ある意味

最も数奇な運命を辿った庄蔵を西田敏行さんが熱演していた。

もう1人、現地の女性とイイ仲になってこれまた病の中で

洗礼を受け、ロシアに残る道を選んだ新蔵 役は確か、今は亡き

沖田のヒロくんがこれまた好演してたような(違ったかな?)


果たして光太夫たちの苦労や努力は無駄だったのか・・・

いや、決してそうではあるまい。

彼がロシアにいる間、「何としてでも日本に持って帰りたい」

と必死に得た現地の知識はその後、交友を持った蘭学者たちに

よって後世に残され、残りの生涯江戸から出ることは許され

なかったが、若くて可愛らしい奥さんをあてがってもらい

その後孫からは立派な人物も出たという。

そして彼の不屈のリーダーシップは二百年以上経った現在も、

沢山の人のお手本として綿々と生き続けている。




さていよいよ、ニャアコが全く出ないまま10回以上続いた

「はたらく おっさん」シリーズも、次回エピローグ

「どこかで誰かが・・・」でいよいよ完結です。






































喜びなき勝利 (おっさん10) [はたらく おっさん]

オレ達は誇りうる・・・・・・・・

物語がある・・・!

ガキの頃から・・・・・・

何度も言われてきたはずだ・・・!


男だろ・・・って・・・!


困ってる人・・・・・・・力のない人達を・・・見捨てんな・・・!

ひとつを何人かで分ける時は・・・・・・・・・譲ってやんな・・・!

荷物は・・・・・・

黙って重い方を スッ・・・と持つんだぜ・・・・・・・・・!

ともかく・・・・・・・いつも損をしてな・・・・・・・・!

そして 笑ってな・・・!
                          

                              福本伸行「最強伝説 黒沢」第10巻より

   ◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆◆◆◆


こうして病院の現場のトップである看護部長が師長会議で決議して下さり、文章にして末端に

至るまで徹底して下さったおかげで、我々 清掃員は奴隷のような扱いから解放された。

5年めにしてようやく勝ち取った権利だった。


別にサボりたいと言ってるわけではない、休憩させてくれと言ってるわけでもない、ましてや

賃金をあげてくれなどと訴えてるわけでもないし協力したくないと言ってるわけでもない、

私らで出来る限りのことは協力もする、ただ、

決められた時間と人数で少しでも病院を綺麗にしたいので、無茶な呼びつけは勘弁してほしい

という、至極当たり前の内容を訴え、それが承認されたというだけの話だ。

ただ、契約の内容が若干変更するということで事務的な手続きも行われた。


会社にも、窓口である総務にも黙っての直訴だったので 当然、風当たりは強かった。


総務からは「何でもやります。っていう契約なんだから、どんな内容でも要求された事には

対応するんが契約だろうが」みたいな感じで嫌味を言われた。

言ってることは正しいのだが常識的にも物理的にも無理なものは無理なのだ。それに

そんなこと言うなら引き抜きなんて汚いマネはヤメろやボケと喉まで出掛ったが、言って

しまうとこれまでの苦労がパアになってしまうので黙っておいた。


そして元凶である「全部やります、何でもやります」という信じられない契約をした我が会社は

全く他人事だったが「いらん事して病院を刺激して仕事がもらえなくなったらどうするんだ」と

言いたげなのがミエミエだった。

当然、この尻拭いに対して評価も無ければ報酬もなし、あくまで私が勝手にやったこととして

処理された。


一円の得にもならない無駄な苦労だったが、それでも職場のおばちゃん達が喜んでくれれば

まだ救いがあった。

アホな会社おかげで毎日ボロ雑巾のように扱き使われる パートのおばちゃんたちに、

ちょっとでもラクにさせるには、「契約の見直し」という根本的なことしかもう解決策がなかった。


そして交渉したのは私だが、それは日頃の皆の真面目な働きぶりがあったからこそである、

いわば皆で勝ち取った勝利なのだ。



だが、しかし・・・

職場のおばちゃん達の反応は妙に冷めていた。

確かに疲弊しきって喜ぶ余力もなかったのかもしれないが、それを差し引いても、

どう見ても「嬉しい!」という雰囲気ではなかった。

それどころか信じられない情報も耳にした。

何と

「私達が一生懸命 働いてる間、主任(私)はサボってラクばかりしてる」

という不平の声があがっているというのだ。


情けなかった。

頭の中を「残酷な天使のテーゼ」が流れ、エヴァのオープニングのように黒地に白文字で

「無駄骨」「尻拭い」「反乱」「無能」「左遷」などの、ありとあらゆるネガティブな言葉が

サブリミナルでチカチカと点滅していった。


まあ、言ってるのは2~3人で、主に1人が煽ってるだけらしかったので放っておいたが

実はこれは根深いものがあり、次の事件への火種として燻り続け、やがてそれは

数ヵ月後に爆発することになるのだが、それはまた別の機会に・・・(も~嫌っ)


さすがに多少のショックと虚しさは感じたが、40数年の人生がずっとこんな感じだったので

立ち直るのも早かった。

おそらく、性格上これからもきっと こういう事の繰り返しになるのだろう。

(つづく)



























































交渉 (はたらくおっさん その9) [はたらく おっさん]

今年の1月某日、休み明けの月曜日、看護部長室のドアをノックした。

「看護部長、お忙しいところ申し訳ありません、ちょっとご相談したいことが・・・」


会社も、病院の窓口である総務も通さずいきなりの直訴である、あとあと面倒なことに

なるのは必至だったが、もう時間がなかった。

そもそも、この人たちが真剣に相談に乗ってくれてたら こんな無謀なことはしなくて済んだ

はずだ。


「あら、なにかしら」


困ったことがあったら相談しろ、と言っては下さっていたが、実際あらたまって訪れると

さすがに身構えられ、警戒されたみたいだ、ひょっとしたら本当に来るとは思ってなかった

のかもしれない。

もともとが ガラスのハートを持つ、ヘタレ親父の私はこの時点でいきなり怯みかけたが

ここまで来た以上、レインボーマン並みに今更 後へは引けないのだった。


「何かしら、私でお役に立てること?」

看護助手からの呼び出しが頻繁すぎて仕事にならないと、正直に話すと、契約のこととか

自分にはわからないので総務に相談したらどうかと言われた。

総務にはいろいろ相談させてもらって力になってもらってるが、この件だけは総務も踏み

込めず、何度も中途半端でおじゃんになってると伝えると、

「あと2時間後にまた来るように」と言われた。


2時間後に再訪し、ここに至るまでの経緯を最初から説明した。


10年近く前、最初にこの病院とウチの会社が契約した時、仕事欲しさに

「全部やります、なんでもやります」という狂った条件をつけていたために

年々、雑用の呼び出しがエスカレートし、本来の清掃の仕事が追いつかなくなってしまってる

ということ、


看護士や助手が忙しいのはよくわかるし、患者さんにちょっとでも綺麗な病室で入院生活を

送ってもらいたい、という気持ちで掃除しているが各階で1日に10回近くベッド移動があり、

その都度呼びつけられるというのは時間的にも人数的にも人権費の面でも現実的に不可能

であるというのを理解してもらいたい、ということ、


70歳近い高齢の掃除のおばちゃんが、朝の6時半から昼まで休憩なしで、あちこち呼びつけ

られながら仕事してるにも関わらず、ちょっと姿が見えないと「さぼってる」と総務に報告される

現状、


こんな状態なのでパートが来ても続かず、人は減る一方で、もう来週からの予定がたたなく

なってしまってることなどなど・・・


普通ならホンマかいな、と疑われるような内容だったが、もともと看護部長自体が着任早々

「こんなおかしな病院はじめてだわ・・・」

と、呆れるほど本当におかしな病院だったので、実にあっさり納得してもらえた。


ただ、私の一存でこの場で勝手に即決することは出来ないので今日の師長会議で各階の

師長に伝えた上で内容を吟味して方向性を出します、との事だった。


そして3日後・・・

「看護士や看護助手はベッドを動かした際、さほど床が汚れてない場合は必要以上に

清掃員を呼ばないこと、自分達で出来ることは極力 自分達でやる事」

といった、小中学生向けのような極めて常識的な内容が文章で正式に看護部に通達

された。



この病院に派遣されて5年、責任者として3年半、いくら契約とはいえ、奴隷同然の扱い

だった清掃員たちが最低限の権利を勝ち取った瞬間であった。


(つづく)






































Time is now (おっさん その8) [はたらく おっさん]

「何か困ったことがあったら相談しなさいよ」


着任早々の新しい看護部長が、たかだか下請けの掃除屋を看護部長室に招いて下さり、

お茶とお菓子を出して、もてなしてくれるなどとは信じられない話だった。

このころは、まだ何とか無理矢理だがシフトは回せていたし、ひょっとしたら求人募集で新しい

人が入ってくるかも、という希望もあったので、さほど深刻に相談することもなく、看護部長室を

後にした。


しかし長年に渡って文字通り奴隷のように扱き使われ続けてきたツケが、遂にこの年の暮れに

ピークに達してしまった。

特に1人で2人分働いてくれていた副主任が抜けたのが致命的だった。

結局12月になっても新しい人など入って来ず、メンバーの殆どが何かしらの不調を抱えたまま

年を越してしまった。

毎年、12月には何人かで集ってカラオケに行くのが ささやかな楽しみだったのだが、さすがに

この年は副主任が辞め、若い子たちは辞めたり引き抜かれたり、ベテランさんは体調不良で

誰も参加者が居らず、初の中止になってしまった。

仕事に関しては過去最悪の年だったが、来年が良い年になるとも到底思えなかった。


そして年が明け、雪が降ったりして更に高齢メンバーの不調に拍車がかかり、とうとう1月も

半ばにして予定が組めなくなるという事態が起きようとしていたが、病院側はそんなことは全く

お構いなしで、相変わらず些細なことで呼びつけ、同じ場所を何度も掃除させ容赦なく扱き使い

続けた。


「何か困ったことがあったら相談しなさいよ」


いよいよ切り札とも言うべきこの言葉に頼る時が来た。


ただし、直接に看護部長に直訴するとなると相当なリスクが伴う。

本来、我々 下請け業者の窓口は病院の総務である、今までも相談や報告はこの総務にして

きて、大抵の事は実行してくれたりしたのだが、現場サイドと事務系との軋轢というのは

ここでも存在するようで、看護部に対してはあまり強く言えないみたいで、実際言っても聞いて

もらえないようだった。

総務に「看護部長に相談したい」と言えばストップがかかるのは目に見えてるし、かといって

総務を飛び越して看護部長に直接相談に行くと、総務を蔑ろにした形になり面目丸つぶれの

ような状態になる。

ただでさえ突然キレて「貴様」と罵倒しながらボールペンを投げつけるような人物である、どっちに

転んでも無事では済まないだろう・・・

今後の事を考えると気が滅入った。

それにしても

こんなことは本来、会社がすることだろうに・・・


私は生来、貧乏性なので、ひょっとしたら この先もっと大変なことが起きるかもしれないので

その時の為に、この絶対的な切り札を取っておきたい気持ちもあったが、現実は、もう来週の

予定も立てられないくらい職場自体が疲弊し、満身創痍の状態で、切り札を温存してる余裕

などなかった。

今を乗り越えないと、この先も無いのだ。

「困ったことがあったら何でも相談しなさいよ」


今がその時だった。

(つづく)
















































Here comes the sun (おっさん7) [はたらく おっさん]

これまで仕事上の大変なことばかり集中して つらつらと書き連ねてきたので、この半年間

辛いことしかなかったのかと思われそうだが、7月から12月の間に我が家には良い意味で

大きな変化が起こっていた。

手の折れた招き猫、ニャアコが9月にやって来て11月から一緒に住むようになったのだ。

まあ、これはさんざん書いてきたので今は割愛するが(おいおい[あせあせ(飛び散る汗)]

家族やニャアコとの毎日が心の拠り所になっていたのは確かだった。

そして

ほぼ時を同じくして私の知らないところで救いの手がさしのべられようとしていた。


秋を過ぎた頃、病院で看護部長の交代が行われた。

もともと私たち清掃員は病院の職員ではないので、日頃から看護部長と接する機会も

なかったし、実際この5年間で過去2人の看護部長とは殆ど会話したことがなかった。

第一、下請けで使ってる掃除屋から黙って引き抜くような病院に来る様な人物なんて

たかがしれてるだろうと興味もなかったが前より酷いことにならないようにとは願っていた。


新・看護部長が就任して1ヶ月ほどした頃、突然呼び止められ話かけられた。

「あのねぇ、私は今までいろんなところで看護部長やってきてきたけど、ここは本っ当に掃除が

行き届いていて綺麗だわ~、素晴しいわっ!もうね、看護部長が誉めてたって皆に伝えてね」


あまりにも意外な言葉だった。

しかし、この新しい看護部長は今までのタイプと違い、明るくて気さくな感じのかただったので

皮肉や社交辞令でないことはすぐにわかった。

就任してすぐの頃は猛烈に忙しそうで、挨拶をする程度だったが次第に落ち着いてくると

責任者の私だけでなくパートのおばちゃんにも気さくに話しかけて下さっていた。

もちろん、掃除屋だけを特別扱いするわけでなく、偉い先生から学校を卒業したばかりの

見習いの看護学生まで分け隔てなく接しておられた。



「ねぇ、ちょっと看護部長室に来ない?コーヒーでも入れるわよ」

ある日、看護部長室に呼ばれた。

そこであらためて、病院を綺麗にしてくれてることに対する感謝を告げられ、いつも真面目に

働いてくれてる あなた達は本当に病院の宝だ、とまで言ってくださった。



看護部長もこの病院はちょっと珍しいくらい大変なところだと感じていたようで、何から手を

つけていいのかわからない程だと言われ、「何か困ってることはない?」と尋ねられた。

この時はまだシフトも何とか回せていたし、ひょっとしたら新しいパートさんが入ってきてくれる

かも、という希望も持っていたので とりあえずこの日はお礼を言うだけにしておいた。


「何か困ったことがあったら何でも相談してよ」

看護部長室を出る時、そう声をかけて下さった。



見下され蔑まれ、それでも忍耐して凌いでいた日々に、ようやく僅かな希望の光が差し込んで

きた瞬間だった。

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希望の光 (はたらくおっさん 6) [はたらく おっさん]

孤立無援の中での外部からの否定と迫害、信じていた内部からの あっけない裏切り・・・

と、書くと大げさだが、それでも夏、秋、冬と季節の移り変わりと共に40過ぎのおっさんには

精神的にも肉体的にも相当キツいものがあった。


ここまで屈辱的な目に遭いながら何故辞めようとしなかったのか?

答えはカンタン、私が「何もできない人間」だからである。

決して謙遜で言ってるわけでなく、本当に何も出来ないのだ。

工業高校卒業のクセに機械関係はさっぱりだったし、PCに関してはエクセルがどうとかの

以前に、まずインターネットの使い方すら解らなかった。車も毎日乗ってるわりにはエンジンの

ことをスイッチと言って笑われたこともあったくらいオンチだった。

資格といえば英検の4級とか電卓検定3級とか危険物丙種など転職の役に立たないもの

ばかりで、かといって今から新しい物を取得する時間と資金の余裕もなかった。


結局、何も出来ない人間なので「銭の為なら何でもするズラ」と開き直って逆境を楽しむくらいの

気持ちでいくしかなかったのだ。

子供の頃から「はだしのゲン」や「妖怪人間ベム」、「タイガーマスク」などの、主人公がやたらと

ひどい目に遭う漫画ばかり見ていたおかげで、我知らず免疫がついてたのかもしれない。

人間の為に命がけで悪い妖怪と戦いながら「結局お前もアイツらの仲間だろうが!」と理不尽に

殴られて泣いていた ベロの不憫さを思い出せば、自分より明らかに年下の総務にボールペンを

投げつけられ罵倒される事も我慢できたから不思議だった。



だがそれはあくまでも私個人の事情であって、大切な部下であり、貴重な戦力であり、職場の

財産であるパートのおばちゃんたちが相次いで身体を壊し、シフトが組めないような現状は

如何ともしがたかった。

自分の休みを返上して代わりに出勤したりしたが、最低でも1日10人は出勤していないと

回らない大きな現場なのでそれも限界があった。

メンバーの8割が60歳以上の我が職場では、ほぼ全員が腰痛、頭痛、足のむくみ、手の痺れ

などで2日以上続けて出勤するのが難しくなってきていた。

会社に訴えても「今、職安に求人出してるから」とか「そこは大事な現場だから何とかしろ」

と、まるで他人事だった。

アホな会社のおかげで今までの苦労も努力も全て水泡に帰そうとしていた・・・


しかし


世の中とはつくづく分からないものである


この2つ前の記事 (はたらく おっさん・その4)で青竹さんがコメントで励ましてくださったように

実はこの時、既に 最も意外な場所から、暖かな「希望の光」が差し込んでいたのだった。

(つづく)

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はたらく おっさん(その5) [はたらく おっさん]

なんの後ろ盾も協力者もないまま現場を守ってゆかなければならない状況は困難を極めた。

副主任が辞めたからと言って代わりが来てくれるわけでなかったので全て私がやらなければ

ならなかった。15人分のシフトの調整から、物品の注文・管理、パートのおばちゃんの送迎、

会社は何一つ手伝おうとはしなかったし、やっても何一つ評価しなかったが文句だけは言った。

そして専務や常務の管理職クラスが交渉してくれていた病院との難しい話し合いなども、私が

やらなければいけなくなったのだが、ある時、会社に頼まれた用事を病院の総務にお願いしに

いったところ、「それをやるのが貴様ら掃除屋の仕事だろうが!」と言ってボールペンを投げつけ

られたり、逆に病院側からの絶対に不可能な用件に対して、もうちょっと待ってほしいと頼むと

同じくその総務に「チッ、使えねえなぁ、駄目だコイツ」と周囲に人が沢山いるにも関わらず

大きな声で捨て台詞を吐かれたりもした。


まあ、それでも自分に落ち度があったわけでもないし、最初から無茶なことを押し付けられてる

だけだから仕方がない、と開き直って我慢していたのだが、更に追い打ちをかける仕打ちが

待っていた。


副主任去りし後、一番頼りにしていたパートの30代の女性を病院が看護助手として引き抜いた

のだ。


ウチの職場で2年間、真面目に働いていたコなので信頼してたのだが、ある日突然

「ここの病院の看護助手にならないかと言われて面接受けたら合格したので、今月で辞めます」

と言われ、あっさり出て行かれてしまった。

全く悪びれる様子もなく、仕事中に抜けて面接の打ち合わせをしていたことや、同僚がその

看護助手から扱き使われている間、院長室で面接を受けてたことなど、実にあっけらかんと

教えてくれてから辞めていった。

もちろん病院側からは何の断りも報告もなく、こちらは只でさえ人不足のうえに、貴重な若い

戦力を失ってしまった。

もう呆れて怒る気にもならなかったが、何だか何もかもがバカらしくなっていった。


どうやって凌いできたのか覚えてないくらい忙しい毎日が過ぎてゆき、季節は秋になりそして

冬になり、やがて平成23年が終わった。



平成24年、今年になって早々に最大の危機が訪れた。

人手不足のうえにメンバー全員が疲弊しきって体調不良が続出し、遂に現場がまわらなく

なろうとしていた。

解散か、撤退か、更迭か、いずれにせよもはや風前の灯火のように思われた。

(つづく)

























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